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三原城だけじゃない!高山城・新高山城とつながる「小早川氏城跡」の歴史

紅葉と三原城跡
紅葉と三原城跡

三原駅のすぐそばにある三原城跡。実はこの城だけでなく、本郷周辺の高山城跡・新高山城跡も合わせて、国の史跡「小早川氏城跡」に指定されていることを知っていますか?三つの城を年代順に並べると、小早川氏の拠点が山から川沿いへ、そして海辺へと移っていった歴史が見えてきます。文化庁と三原市の資料を照らし合わせ、城の違いと意外な共通点をたどります。

国の史跡「小早川氏城跡」は、三つの城をまとめた名前

「三原城」と聞けば、三原駅と一体になった石垣を思い浮かべる人も多いでしょう。しかし、文化庁の国指定文化財等データベースで正式名称を調べると、登録されているのは「小早川氏城跡」。その内訳は「高山城跡」「新高山城跡」「三原城跡」の三つです。 高山城と新高山城は本郷周辺の山城、三原城は現在の市街地に残る城跡。離れた場所にある三つが、一つの国指定史跡として扱われています。指定日は1957年12月11日。文化庁の解説は、山間の要害を拠点としていた小早川氏が、海と陸の交通上重要な場所へ移っていく過程を示す遺跡だと評価しています。つまり、石垣の立派さだけでなく、拠点の移り変わりそのものに歴史的な価値があるのです。

最初の拠点・高山城は、築城年が分かっていない

現在の高山城跡は、三原市高坂町・本郷町にまたがります。三原市の解説によれば、沼田小早川家の本拠地として築かれました。ただし、築城した年は分かっていません。文献上で最初に確認できるのは1338年(建武5年)です。 「1338年に築城された」と言い切れないのが大切なポイント。史料に初めて登場した年と、城を造った年は同じとは限りません。城内には、北側の本丸・扇の丸など八つの郭(くるわ)と、南側の千畳郭・太鼓丸など五つの郭が、二つの尾根に分かれて配置されていました。郭とは、土を削ったり平らにしたりして設けた城の区画のこと。地形を利用した山城だったことが分かります。

1552年、川の向こうに新高山城へ本拠を移した

次に登場するのが新高山城です。三原市は、小早川隆景が1552年(天文21年)に築き、高山城から本拠地を移したと説明しています。市教育委員会の文化財パンフレットでは、隆景が高山城に入った翌年、沼田川の対岸にあった砦を修築して移ったと紹介されています。 二つの城は沼田川を挟んで向かい合う位置関係です。パンフレットには、新高山城からは沼田川流域や河口を見渡せ、水運の便もよかったことなどが記されています。一方、家臣の気持ちを一新するためだったという説明もありますが、これは資料が「いわれる」と紹介する見方であり、移転理由が一つに確定したわけではありません。 新高山城の構造も見逃せません。市の資料によると、本丸・中の丸・釣井の段など七つの郭からなる内郭部を、外側の郭が守る造り。釣井の段には井戸が六基残っています。山の上で人が暮らし、城を守るには水が欠かせなかったことを想像させる遺構です。

1567年、舞台は山から海辺の三原城へ

新高山城への移転から15年後にあたる1567年(永禄10年)。三原市は、小早川家文書を根拠として、この年に小早川隆景が三原城を築いたと紹介しています。高山城から新高山城へ、さらに三原城へ。三つの拠点を年代順に追うと、舞台が本郷周辺の山から三原の海辺へと移っていきます。 ただし、現在見られる三原城の石垣や城郭のすべてが1567年に完成したわけではありません。市の文化財解説は、主に慶長年間から福島正則が治めた江戸時代初期にかけて、今のような城郭へ整備されたと考えられるとしています。築城の始まりと、現在の姿につながる整備の時期は分けて考える必要があります。 三原市の観光案内によれば、三原城は海に向かって船入りを設け、軍港の機能も備えていました。海に浮かぶように見えたことから「浮城」とも呼ばれます。山城の防御に加え、海上交通や船の運用が重要になったことが、立地の違いからも読み取れます。

意外な共通点――「続日本100名城」の広島県の2城は両方とも三原市

もう一つ面白い事実があります。公益財団法人日本城郭協会が選定した「続日本100名城」には、三原城と新高山城が選ばれています。三原市の公式案内によると、広島県から選ばれた二つは、この二城だけです。 ただし「続日本100名城」と「国史跡」は別の制度です。続日本100名城は城郭協会の選定で、国史跡は文化財保護に関する国の指定。高山城は続日本100名城の二城には含まれませんが、三原城・新高山城とともに国史跡「小早川氏城跡」を構成しています。似た名称や制度を混同しないと、三つの城の関係がすっきり整理できます。

文化庁の記録には、今とは違う城の名前も残っている

文化庁のデータベースをさらに見ると、1998年12月8日に「名称変更」と「追加指定」が行われた記録があります。旧名称の欄には「小早川氏城跡 妻高山城跡 高山城跡 三原城跡」と記されています。現在の表示は「高山城跡 新高山城跡 三原城跡」です。 つまり、古い資料に出てくる「高山城」が、現在の案内でいう「新高山城」を指す場合があります。城跡の場所が移動したという意味ではなく、史跡としての名称整理が行われたということです。古文書や昔の観光資料を読むときは、どちらの山を指す名前なのか確認すると誤解を防げます。

三原城跡が駅と一体になったのは、近代の鉄道建設が関係している

三原城のもう一つの特徴は、現在の三原駅と城跡が重なっていること。三原市が公開する古写真の解説には、1894年(明治27年)に山陽鉄道が三原城本丸跡を貫通したと記されています。文化庁の解説も、鉄道の敷設や海岸の埋め立て、市街地の発展によって、城の全貌を地上で見ることは難しくなったと説明しています。 駅のすぐそばで天主台の石垣を見られる景色は、戦国時代の城と近代以降の交通の歴史が重なった結果でもあります。いつも通る三原駅を「昔の城の中に造られた駅」として眺めると、見慣れた風景が少し違って見えるかもしれません。

三つの城を知ると、三原の地形が歴史の地図に見えてくる

高山城は、沼田小早川家が拠点とした山城。新高山城は、1552年に隆景が本拠を移した、沼田川の対岸の山城。そして三原城は、1567年に築城されたとされる海辺の城です。 三つを別々の観光地として見るだけでは、気づきにくい共通点があります。それは、小早川氏がどこを拠点に選び、川や海との関係をどう変えていったのかということ。国が三城をまとめて「小早川氏城跡」として保護している理由も、ここにあります。 三原駅の石垣を見たら、その歴史が本郷の山々にも続いていることを思い出してみてください。今度、地図で高山城と新高山城の位置を見比べれば、沼田川を挟んだ二つの山城と海辺の三原城が、一本の歴史としてつながって見えてくるはずです。

参考資料・出典

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